2010年1月

息子「鄭経」の時代

彼は参謀「陳永華」の協力により、

イギリスとの貿易、日本との貿易、東南アジアとの貿易に乗り出しました。

そして、日本やイギリスから武器・弾薬を買い取りました。

輸出品の主なものは砂糖です。

彼はまた漢文化を台湾へ入れる計画もしました。

参謀「陳永華」の建議で、

1665年台湾の台南で孔子廟を建てたのです。

そして学校も設立しました。これは台湾初めての学府です。

彼の時代に清王朝と5回の和議がありました。

清王朝への提案を出したのですが、

例えば、

髪を剃ることや清王朝衣服に変えないこと
台湾を永久に守ること
清王朝に献納しないこと

などでしたが、当然清王朝はそれを受け入れられませんでした。

和議はすべて失敗におわり、

1674年、明王朝の将軍たち耿精忠、尚可喜、吳三桂などは清王朝に投降し、

清王朝の兵を連れ、鄭経の支配下の福建の漳州、泉州、湖州、惠州などを制圧。

1680年、鄭経は海戰に負け、福建から台湾へ。

台湾国内の政変もあり、鄭経は翌年なくなりました。

そして監国「鄭克臧」が殺害され、

「馮錫範」という人物は彼の弟である「鄭克塽」を擁立し、

国政が悪くなり、どんどん衰退し、国民の信頼はどんどん失っていったのです。

Posted by histo | 2010年1月27日 20:02 |

鄭成功時代が終わるまで

鄭成功は自分を延平郡王の身分とし、

年号も「南明永曆」と改称しました。

そして新港溪(今の塩水渓)を境界線とし、

北側は天興県(今の台南佳里鎮)、

南側は万年県(今台南県仁徳郷)としたのです。

食料不足のため、現在の嘉南・高屏平原に、兵士を派遣し開拓に乗り出しました。

したがって、現在台湾にはさまざまな地名にまだこの時代のものが残されています。

台湾南の高雄の近辺の観光名地である

左営
前鎮
柳営

などが存在している例です。

しかし、1662年、鄭成功は39歳の若さでなくなります。

彼の息子「鄭経」は続いて台湾を経営していますが、

その後、鄭経は大陸の廈門(アモイ)に残った最後の部隊を台湾へ撤退させ、

自分は「東寧王」として君臨しました。

そして、東の都の名は「東寧」に改称されました。

その当時、イギリス人は彼を「The King of Tyawan」と称しました。

Posted by histo | 2010年1月25日 02:38 |

鄭成功時代の幕開け

鄭成功は清王朝の成立により、台湾へ逃げました。

台湾へ逃げてきたときに、台湾はオランダ人の管理下にあり、

この明王朝の流亡政府は、清王朝と戦い続けるために、

台湾を基地として選定したのです。

オランダは彼らの台湾上陸を拒否し、戦い結果、オランダ側が敗戦。

彼らは、台湾を放棄し離れました。

その後、台湾は鄭成功の時代になりました。

しかし、鄭成功は台湾に上陸する前に、

1658年と1659年二回の出兵し、清王朝と戦っています。

南京ではすべて失敗に終わり、

その後、彼の父は過去台湾で経営した経験があるということが、台湾を選定した理由です。

1661年彼は25000人の兵士を連れ、台湾へ侵入しました。

オランダ軍は包囲作戦を行い抵抗しましたが、オランダは政権を奪われ、

台湾は始めて漢人の政権となったのです。

彼は台湾を占領後、清王朝を倒すという目標で、

明王朝を回復するスローガンを挙げ、台湾を明王朝の東の都として、

「承天府」と定めました。

Posted by histo | 2010年1月23日 02:23 |

外来政権から次の時代へ

オランダ統制時代の38年間、

オランダは海外から新品種の果物や野菜を導入しました。

マンゴー
トマト
大豆
高菜
パイナップル
インゲン
フィリピンタバコ
胡椒
食用の牛     などなど

台湾を基地として、オランダ人の経済活動範囲は、

明王朝・日本・東南アジア諸国・ヨーロッパ諸国などへ展開しました。

この時期には台湾は、海洋国家の貿易基地として荷物の集散地になるだけではなく、

実は、台湾はすでに世界の海洋貿易体系の一国地域になったのです。

これは中国の伝統封建社会の自給自足の経済ではなく、

世界向けの経済国でした。

しかし残念なことはこの利権がすべてオランダ人の手を握られたということなのです。

16世紀になると、いわゆる原住民から成立した「大肚王國」も、

明王朝の鄭成功により消滅されます。

この「大肚王國(Kingdom of Middag)」は

巴布拉族と猫霧束族、巴則海族と一部の洪雅族から共同設立した王国であり、

領域範囲は今日の台中県、彰化県と南投県の一部でした。

Posted by histo | 2010年1月21日 02:13 |

オランダ政権時代

オランダ人は原住民に飴と鞭を用いて、原住民を弾圧しました。

「地方会議(Landdag)制」を採用し、各部族から長老を選任し、

オランダ政府当局の施策に従うことを宣伝したのです。

その地方会議は四つに分けられ、

「北路」、「南路」、「淡水」と「卑南」の四区がありました。

長老たちはオランダ人に服従すると宣誓し、

オランダ人からその権限を委任され、その効果は果たされました。

同時にキリスト教宣伝にも非常に役に立ったのです。

当時に、移民してきた漢民族もオランダ人に協力する役割を演じました。

彼らはオランダ商社の交渉販売権を獲得し、

また、商業税を担当することにより、

漢人たちは原住民に販売する塩・鉄・タバコなどの権益を独占しました。

また原住民から鹿皮などの購入権利をももったので

これはオランダにとって、商業権から得た税や利益が計算できないほどになりました。

当然、このようなことで、不満をもつ人々がどんどん増え、

オランダ人に対する不満から暴動を引き起こしました。

1652年、サトウキビの減産と人頭税の増税により、

「郭懐一事件」が起き、その後、「麻豆渓事件」など原住民暴動が起きました。

Posted by histo | 2010年1月16日 06:07 |

オランダとスペイン

西欧諸国の大航海時代のお陰で、

台湾もはやめに西欧諸国との接触することになりました。

また明王朝の衰退により、

台湾は鄭成功の中国政権抗争の基地にもなりました。

その後、台湾の地理位置のよさにより、

世界各国の政治紛争や争奪地の的になりました。

オランダ人が台湾を占領してから三年目、

スペイン人も台湾の北部を占領し、現在の基隆を中心として展開し、

オランダ人との貿易競争も起きました。

スペイン人の宣教師は台湾の原住民の言語についてさまざまな研究を行いました。

その原住民の研究を、「台湾島淡水語辞典」としてまとめました。

スペイン語原文は

「Vocabulario de la lengua de los Indios Tanchui en la Isla Hermosa」

しかし1642年のとき、オランダ人がスペイン人を破って、

スペイン人の城を占拠しました。

スペイン人は台湾を離れていき、

その後、38年間オランダ人は台湾の主人となりました。

Posted by histo | 2010年1月14日 06:06 |

名前の由来

この西欧諸国の大航海時代、

ポルトガル船が台湾海峡を通ったときに、

その船長はこの台湾島の緑を感動し、

彼はポルトガル語で

「Ilha Formosa」
(ポルトガル語では「美しい島」)

と叫んだそうです。

この「Formosa」はもともと台湾の名でもあり、

西洋人は「台湾」という名前よりも

「Formosa」という名前の方が知っている人のほうが多いはずです。

また西欧諸国は「台湾」と呼ぶより「Formosa」のほうが親切で、

台湾は国際社会へ復帰するためには、実は

「Formosa」という国名がふさわしいかもしれません。

台湾人はこの名を放棄し、使用しないまま、

「中華民国」とか「台湾」という中国の漢字を使用しています。

それが世界各国から却下された理由の一つでもあり、

特に中国の漢字を使用することで、中国は

台湾が自分領土という主張が出てきたことも不思議ではないでしょう。

しかし、不思議なのは、ポルトガル人は台湾を通ったが、占領はしませんでした。

しかし、オランダ人がインドネシアに続いて、

はやめに台湾に北上し基地として占領したのです。

1624年から1662年まで、38年間台湾を占領しました。

Posted by histo | 2010年1月12日 06:05 |

台湾への影響

中国の鎖国政策により、

海洋において変化がいろいろを起きました。

時に台湾近辺には、日本海賊や中国沿岸或いは東南アジアの海賊が一気に拡大し、

貿易船を略奪することが、西欧諸国の関心となりました。

このような海賊たちは、中国の明王朝を公然と挑発し、

台湾の地理位置を利用し、停泊港として利用していました。

当時の台湾はまだまだ未開拓地であり、疫病地域でもありました。

したがって、明王朝の兵士たちで

海賊を追撃し台湾へ渡る人は死んでいく確率が高かったのです。

この理由で誰も海賊を追撃する気はありませんでした。

さらに台湾の地理に理解不十分だったので、

原住民に殺された事件もよく発生していました。

16世紀なかごろ、中国から少数の漢民族移民があり、

そのときにはすでに、マレーシア系の部族民や南島系統の原住民は移住していました。

このような民族は各自の言語や生活慣習、風習をもち、

当時の台湾各地に分散して生活していました。

その変遷で、その後開化した部族は、台湾で「平埔族」「熟番」と呼ばれ、

未開化の部族は「高山族」或いは「生番」と呼ばれました。

Posted by histo | 2010年1月10日 06:04 |

外来政権の時代へ

西洋諸国による荒波が押し寄せ、

台湾は前回述べたような新時代に強引に引き込まれてしまいました。

なぜならば、17世紀初頭、

西欧諸国はすでに台湾を注目しはじめていたのです。

西欧諸国はアジアとの貿易を行うため、台湾を基地として選びました。

また、西欧諸国は当時明王朝時代であった中国との交渉により、


ポルトガルはマカオを基地としました。
スペインはフィリピンのルソン島を植民地として占領しました。
オランダはインドネシアのジャワを占拠しました。

このように西欧諸国が海外各地の植民地競争時代に突入し、

台湾が植民地となる運命はもはや避けられなかったことは事実と言っていいでしょう。

また西欧勢力の拡大と同時期に、

中国明王朝の鎖国政策で東南アジアへの影響力が低下してしまい、

従来の海洋大国の勢力が衰退しはじめ、

特に明の海相「鄭和」の東南アジアやヨーロッパ進出への中止により、

西欧諸国に新たなアジア進出の機会を与えられたとも考えられます。

Posted by histo | 2010年1月 8日 06:04 |

西欧諸国の進出

15世紀前の台湾に関して記載している文献はほとんど存在しません。

15世紀から16世紀への西欧諸国は、

キリスト教が影響を及ぼし、

さらに当時のオスマン帝国の陸上封鎖により、

中東やアジア地区と貿易が制限され、

西欧諸国自身の政治経済の勢力を拡大するために、

陸上から海洋へ展開しはじめ、

そして、海というシルクロードが発見され、

中東・インド・アジアの新貿易航路が確実になりました。

西欧諸国の

アジア市場への開拓とアメリカ新大陸の開拓への競争時代の幕が開きました。

そして、西欧諸国間の海の利権の争いに突入。

西欧諸国は世界各地に、殖民活動や貿易活動などをおこない、

特にキリスト教の宣教活動は世界各地で活発に展開してきました。

さらに西欧諸国は植民地を争奪戦と海の覇者となることを、

西欧諸国の国策として着々強行しました。

そして、台湾の歴史は、一気に未開拓の世界から文明の西欧人に突入しました。

同時に台湾の運命も変わり始めたのです。

Posted by histo | 2010年1月 6日 06:03 |

円山文化あれこれ

円山地域はもともと山岳地帯です。

先史時代の台北には台北湖という淡水湖が広がり、

円山はその中の小島でした。

1896年から1999年までの複数の発掘から、

円山遺跡は台湾では珍しい多文化層遺跡であることがわかり、

現在すでに

漢人文化
植物園文化
十三行文化
円山文化
訊塘浦文化
大坌坑文化
先陶文化

などが確認されています。

その中の一つ、円山文化は円山地域で発掘された遺跡文化です。

日本統治時代、円山文化は

1897年に日本人の伊能嘉矩及び宮村栄一により初めて発見されました。

当時発見されたのは紀元前2800年から紀元前500年前の遺跡であり、

大坌坑文化を継承して台北盆地で発展した先史文化ということが分かりました。

この文化の範囲は

現在の

円山、芝山岩、関渡,大坌坑,五股、
中和の淡水河両岸及び新店渓下流、
基隆河沿岸から基隆港までの平原部

と広く分布するものだと推定されています。

中国文明と同じくらいの古代文明で重要な文明地域であることを

もっと理解して欲しいです。

Posted by histo | 2010年1月 5日 06:44 |

新石器時代の台湾

約紀元前7000年には、

浙江省の河姆渡文化と関連すると考えられる

大坌坑文化(約紀元前7000年-約紀元前5000年)

が台湾全土に広がり、

牛馬頭、牛稠子文化などに引き継がれるのです。

加えて、前に述べた円山遺跡は

台湾台北市中山区の円山地区西側に存在する

新石器時代の遺跡群です。

ここは台湾の観光名所で、

観光客が一度泊まってみたいといわれる有名な

園山大飯店(グラントホテル)

がありますし、

また近辺のには観光名所である士林観光屋台があります。

遺跡総面積は2.7エーカーで地層により異なる時代文化が存在しており、

紀元前2800年から紀元前500年にかけて

円山文化が存在していたことを示しているのです。

1897年と1953年の2回の発掘により、

円山遺跡は二つの文化層で構成されることが判明しています。

上層を円山文化
下層を縄紋文化

と称し、

1990年以降には

大坌坑文化
植物園文化
十三行文化

などなどの存在をも明らかになりました。

1988年に台湾政府は円山遺跡を国家第一級古跡に指定、

現在、円山史跡公園の整備を進めています。

Posted by histo | 2010年1月 4日 06:42 |

旧石器時代の台湾2

旧石器時代に関して文化や遺跡のほかに、

とても大きい事実があります。

それは台湾で最も古い人類、

左鎮人

が発見されたことがあげられます。

この人類の化石は

台南県左鎮郷の菜寮渓

で発見され、

「左鎮人」

と命名されたわけです。

左鎮人は旧石器時代後期のホモサピエンスに属し、

発見された頭蓋骨から

約2万年から3万年前と推定されています。

つまり

その時期のあとから台湾で人類がいて活動していた

ということは間違いなのです。

前回述べた文化よりも早期に台湾で出現したのは

左鎮人文化であるということが示されています。

今まで語っていったことからわかるように、

台湾人は本当に自分の文化の大切さを無視して、

そしてすべて、なにもかもを破壊しています。

したがって、台湾人は自分の歴史を語られない人種なのです。

今、このときに少々儲ければあとは何も関係ない

と考える思考回路なのです。

これが台湾の歴史からみる現実の一つなのです。

Posted by histo | 2010年1月 3日 06:41 |

旧石器時代の台湾

古代氷河期、台湾はアジア大陸と地続きでした。

台湾北部や南部及び東部にいくつかの旧石器時代の遺跡が発見されています。

北部には網形文化

南部・東部には長濱文化

が確認できます。

また台湾台中県の七家湾渓地域で発見されたのは七家湾遺跡です。

この七家湾渓という場所は

台中県の武陵農場内です。

1997年、考古学者たちが2年間かけて掘りだし、

この七家湾遺跡が確定したのです。

この遺跡からは石棺や大量の土器などが発見されました。

この遺跡の発見現場は台湾の最高の標高で、

また考古学者たちの推定ではこの場所には

現在台湾東部の宜蘭県と西部の埔里を結ぶ交通の要衝があり、

当時の台湾人が内陸部の交易活動を行っていた

という証拠もあるそうです。

もちろん、これらの発掘品は非常に貴重な文化財になりました。

しかし1999年に武陵農場に国民賓館を建築しました。

国民賓館を建築した理由は、

この遺跡地域から大規模な発掘されたのですが、特に大きな発見がなかった

ということで、この遺跡は国民賓館の開発により破壊されてしまったのです。

Posted by histo | 2010年1月 2日 06:38 |

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