ずいぶん間があいてしまいましたね。
前回・前々回と、軽く台湾の原住民についてさわりをお話ししました。
今回はその続き、平地に住む原住民、平埔族についてお話したいと思います。
前回お話しした、原住民による国
大肚王國
は清国の雍正皇帝により消滅されました。
それから、約300年を経て、中国大陸の漢民族の移民者の侵入により、
平埔族は威嚇され、同化されたのです。
平埔族の人々は生きるために、
大陸の漢民族と婚姻関係をもち、
平埔族の独自な文化はどんどん消えていきました。
そして長期に渡って、漢民族と区別することができなくなってしまったのです。
一時期、清国の命令により、
中国大陸の女性は台湾へ渡ることが禁じられました。
現在の台湾社会でも代々に伝えられている諺で
「台湾の母はあり、台湾の父はいない」
ということばがあります。
つまり 当時台湾に移民したのは男性ばかりで、
当然結婚相手は現地の台湾平埔族の女性なのです。
漢民族と同化しながらも、
実際に台湾の多く地名、氏名、風俗、信仰、及び歌などは
平埔族の歷史文化から遺留されたものがまだたくさん残されています。
Posted by histo | 2009年10月25日 20:03 | パーマリンク
その1では台湾の原住民の概要と
高山族の部族分類について書きました。
今回はもう一方の平埔族について書いてみようと思います。
平埔族の部族分類は十部族が存在していることがわかっています。
1)凱達格蘭族
2)馬賽族
3)噶瑪蘭族
4)道卡斯族
5)巴則海族
6)巴布拉族
7)貓霧捒族
8)洪雅族
9)西拉雅族
10)猴猴族(Qauqaut)
まず1の凱達格蘭族の名は
現在、台北市内の総統府(日本統制時代の総督府)
の前の大通りの名になっています。
これは陳水扁総統になった時点で、
この近辺に古代、凱達格蘭族が住んでいた地域として
蒋介石の付けた道路名からこの名、凱達格蘭大通りと変更したのです。
台湾は以前の政権交代(国民党から民進党)で
これ以外にも、
中正紀念堂が台湾民族館になったり(広場前の正門に書かれている字も変わりました)
以前公然と国営化されていたいろいろな企業が民間化されたりしました。
ちなみに今年また政権交代(民進党から国民党)が起こったので
中正紀念堂についてはまた元に戻っているそうです。
話を歴史に戻します。
オランダ統制時期には、平埔族には国家組織に類似したものが存在しました。
当時、各部族は大王を共同推薦で選び、
その大王の名は
大肚番王
と呼ばれました。
つまり、台湾は
大肚王國
として存在したのです。
Posted by histo | 2009年10月15日 01:01 | パーマリンク
台湾にいる原住民族は実は非常に多いんです。
原住民の一説では、
新石器時代
約5000年前、中国の歴史とほぼ同じ時期か
或いは中国より早い段階の人類の歴史
には、この島の先住民がすでに数十部族住んでいたらしいです。
現在の台湾には、二種類に原住民を簡単に分け、
一種類は
「平埔族」
もう一種類は
「高山族」
と呼ばれてます。
日本統制時代には、日本政府はこの二種類の原住民を合わせて
「高砂族」(たかさごぞく)
といいました。
高山族の部族分類では、十二部族が存在しています。
その十二部族とは
1)泰雅族
2)賽夏族
3)卑南族
4)阿美族
5)排灣族
6)布農族
7)鄒族
8)魯凱族
9)達悟族
10)邵族
11)太魯閣族(泰雅族から分離形成された)
12)撒奇萊雅族(2007年1月から正式発表により、阿美族から分離形成された)
原住民の大部分は
台湾の山岳地域や東海岸の渓谷地域に居住しています。
彼らの体質や文化も、今日ようやくはっきり見分けられたものです。
Posted by histo | 2009年10月13日 03:38 | パーマリンク
実は、台湾では約5万年から1万年前までの旧石器時代の後期に
すでに人類が居住していたことが発見されています。
近代に発見された台湾の遺跡によれば、
一番古い台湾文化は
長浜文化(別名 八仙洞遺跡)
と呼ばれています。
これは台湾の東海岸にある遺跡です。
また台南の「左鎮」地域には、
原始人のような人類の遺骨が発掘されました。
その原始人はその地名をとって
「左鎮人」
と呼ばれています。
そして、台北に観光した人なら必ず知っているであろう
かの有名な台北円山ホテル(グランドホテル)や
台湾で有名の観光地、夜市の士林観光屋台の近辺には、
円山文化や芝山岩文化などと呼ばれる
新石器時代の遺跡も発見されています。
つまり、遠い昔、台湾にはすでに人類が住みついており、
それは現在の台湾人の祖先かもしれないのです。
しかし、長期の他国占領によって、その研究は許されませんでした。
また残念なことには、
「台湾人」といっている
李登輝政権、陳水扁政権も、
台湾人のルーツを忘れ、台湾の歴史について真剣に取り組みませんでした。
したがって、台湾人は本当の日本人にも、本当の中国人にもなれず、
自分は台湾人とさえも言えないのです。
これは、元総統李登輝が「台湾人の悲哀」と悲鳴をあげた真実です。
いつか台湾人自身がこの悲しさと真剣に対峙、追究し、
真実の歴史を語られる日が来ることを願うばかりです。
Posted by histo | 2009年10月10日 21:15 | パーマリンク
台湾の歴史を語るとき、
1624年オランダ人の占領を契機にして、
それを中心に語るのが普通です。
しかし、その前の歴史、つまり
台湾の古代文明に対しては誰もその関心を示しませんでした。
また、日本や中国国民党の長い統治により、
「台湾人」
としての過去を認識させなかったために、
同化政策を中心とした
台湾の歴史や文化などを触れることを一切禁じる政策をとってきたのです。
そして、この地に住んでいる台湾人自身も
この語らぬ歴史の大切さをわからないまま、
どんどん記憶の中で消えていくことになったのです。
日本の統制時代に、台湾では皇民化政策が行われました。
台湾人は天皇の皇民であるが、二等の日本人民である。
と。
中国国民党の蒋介石はさらに
二等の日本人民といわれた台湾人を
二等の中国人
として教えました。
最近、馬英九が総統なってから、
台湾の民主化は逆戻りし、
彼は自分は高級の外省人
(蒋介石と一緒に中国から逃げてきた大陸系の人々や軍人たち)
と自称しています。
このような政治家や政治政策により、
台湾人は自分の歴史の存在を無視したままで、
台湾の歴史は過去にはなにもないということになっているのです。
Posted by histo | 2009年10月 9日 19:19 | パーマリンク
前回にお話しした事件の後、
清国は日本が敵国として、
「日清友好条約」の責任者人李鴻章は、
今後、日本がまた違法行為を行うと認識し、
清国の北洋海陸軍を設立することに努力しました。
さらに清国は台湾を征服するために、
台灣の海洋防衛事務担当大臣だった沈葆楨は、
「開山撫番(領土を開き原住民を慰める)」を提案し、
同時に清国軍を三つの方向へ出兵することにしたのです。
一つ、
南から鳳山県を通じ後山へ。
つまりいまの東台灣の卑南まで。
二つ、
恒春県に卑南庁を設置する。
三つ、
北から蘇澳を通じて花蓮まで、同時に台湾の中から林圮埔を通じて奉鄉へ、
埔里社庁を設立する。
このことで、漢民族は更に原住民地域へ拡張しました。
その後、
1884--1885年
清国とフランス戰爭期間に、フランス軍は台湾へ進撃。
清国の将軍劉銘傳により撃退されました。
1885年6月
清国とフランス条約により、フランス軍が台湾から正式に撃退されました。
台湾は一時的に清国の領土の一部になったのです。
Posted by histo | 2009年10月 8日 20:35 | パーマリンク
前回、日清戦争前に起こった事件をご紹介しました。
そこで日本とのつながりが密接になるわけですが、
日本が台湾を植民地にした背景を、
そしてやはり当時の台湾事情を
それは
現地の原住民、大陸から移住してきた漢民族、
そして清国から派遣されてきた清国の官僚たち、
彼らのそれぞれの立場を理解しなければならないでしょう。
簡単にまとめれば
清国の無責任や悪政などによる
現地住民が感じる理不尽
と
日本の国策
が一致したことは間違いないでしょう。
話題を戻すと、
1874年6月1日から5日まで、
西郷は「生蕃(生きる野蛮人)」を総攻撃し、
1300名を三方向に分けて突入、
牡丹社やその周辺などが日本軍の掌握地域になりました。
その後「生蕃(生きる野蛮人)」の11社が投降しましたが、
日本軍12名戦死、17名重傷を受け、この戦争終結後、
日本政府は「移民開拓」政策を着実に遂行している中で、
10月になると、当時の台湾の風土病といわれるマラリアが大流行し、
日本軍全員は戦意喪失、
3658名中に561名が病死したことが、西郷の進退問題に関わってきたのです。
最後に決着として、大久保は交渉の全権大使として清国へ派遣され、
イギリスの調停により、清国に戦争損害賠償金を求め、
清国は賠償金を支払いました。
賠償金額は約50万兩銀、現在771万円に値します。
この多数死傷者により、
国際承認を得て同時に琉球を合弁する根拠ともなりました。
Posted by histo | 2009年10月 5日 11:39 | パーマリンク
明治維新以後、日本は
"領土開拓"
のスローガンをあげ、
南の位置にある琉球と台灣は拡大の標的にもなりました。
台湾の"土蕃(現地の野蛮人)"の居住地は
"主なしの地域"であることをいいながら、
中国主権管轄下ではないと主張し、
清国政府の声明は
"台湾は清国の領地"
を主張していましたが、一方、
"清国の法外管轄地域である"という主張をもしました。
1874年1月、
日本軍が台湾へ上陸し、
当時すでに弱かった清国政府は、
沖縄遭難事件について、清国は責任がないと主張し、
これはある意味では
台湾の主権を放棄する
という意味でした。
当時台湾へ派遣されたのは、
陸軍中将大輔西郷であり、
彼は台湾蕃地事務都督になり、
また参議大隈氏は台湾蕃地事務局長官でした。
この二人は長崎で大久保とあって出兵を再確認してから、
将来日本の安全を確保するため
「生蕃(生きる野蛮人)」
を掠殺することになったのです。
この出兵は世界諸国から黙認され、
清国側も日本の出兵に対し拒否しませんでした。
そして、7日に日本軍は上陸し、
13日一部の漢民族の協力により、作戦を行い、この攻撃中に1名戦死、
22日日本軍が総攻撃を始め、牡丹社のリーダー親子を殺しました。
その後、一部の原住民は牛や豚を持ってきて投降しにき、
西郷は日本国旗、日本刀、毛布、木綿布などをお返しとして贈りました。
しかし、牡丹社の周辺の一部の部族がゲリラ作戦を続けていました。
そのために、近辺に居住している漢民族201名が署名で
日本軍に「生蕃(生きる野蛮人)」を殺すことを要請しに来ました。
ほかにも一部の反清国の台湾住民が同様に日本軍を要請し、
清国と戦うことをお願いしたこともあるんです。
日本とのかかわりはもうここから密接なものになっているのです。
Posted by histo | 2009年10月 2日 19:38 | パーマリンク
ちょっと間があいてしまいました。
前回は、台湾がついにアジアの一部となった
鄭氏政権についてお話ししました。
鄭成功の孫で当時14歳の鄭克塽は政権を維持できず
清国に投降しました。
その時、清国が派遣した武将は、元々明国の将軍でした。
その将軍の名は施琅、
明国の叛将で、鄭克塽を大陸へ連れ去りました。
1684年
清国は法外地域の台湾に福建省台湾府を設置しました。
1784年
台湾中部の鹿港を開港し、
1854年
アメリカ艦隊、提督ペリーが基隆港へ到着。
1859年
カトリック教会が宣教師を台灣へ再派遣し宣教活動を行い、
1862年
淡水を開港。
1863年
基隆を開港。
1864年
安平港や高雄港も続いて開港になりました。
開港された港は台湾にとって、発展のカギになりました。
現在もそれぞれ有名な観光都市です。
日本は明治時代にはいり、
1871年
牡丹社事件により琉球難民が殺害されました。
日本政府は政局を安定させるため、
岩倉、大久保政權は台灣へ出兵を行い、
1874年2月閣議を通じて、
大隈重信の連名で
「台湾蕃地(蕃地=野蛮人地域の意味)処分概略」
を提出し、琉球難民の報復のために、
「主なしの法外地域」の台湾原住民に軍事行動を発動した。
これは、日本が近代国家になってから始めての海外への武力行動となりました。
Posted by histo | 2009年10月 1日 01:27 | パーマリンク
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